世界一美しい広場のひとつとして知られる、ベルギーのブリュッセルの広場グラン=プラスを訪れたことがある。世界遺産にもなっており、ヴィクトル・ユゴーが激賛した、といわれるのも知られた話。ユゴーの審美眼をもたない私は、この広場でワッフルをかじりながら、その「美しくおもえない」光景を呆然と眺めながら、西欧人の美意識について想いをめぐらしていた。手にするワッフルは小便小僧の像の近くで買った名物菓子だが、こちらも月並みな味。広場も特筆に値しないと感じたものだから、「名所に美しいものなし」、且つ、「名物にうまいものなし」の凡庸な結論をかみしめた。
 さて、今回は、「美は知識か」というテーマで考える。
 「美しい」といわれているものを見る。知識として蓄積のあった評価に無自覚に引きずり込まれて、対象をしっかり凝視することもなく、関連した知識の始動に突き動かされて「さすがに美しい」と、反応してしまうひとが少なくないようにおもえる。
 知識は記憶の中にあるので、過去の記憶の再生が、今の観察に影響を与えているのである。
 知識は、鑑賞者を誘導するガイドとなっている。と同時に、美を認定する「権威」ともなっている。というのは、自分が見ているものよりも、覚えているものに従う態度が、在りのままの観察を疎外するのだ。
 知識は、無節操な力をもってしまっている。こども同士の会話でも、「何かを知っている」と語る子は、「知らない」子に対して優位を誇る喜びの感情をあらわにするものである。そこでは、その知識の真偽は、まず問われず、知識の有無だけが量られている。
 ミシュランの『レッドガイドブック』の料理店評価は広く知られているが、それを知らないひと、あるいはそれを信用しないひとには、価値はない。また、場末の大衆料理こそ美味の醍醐味を楽しめると確信するひとには三ツ星評価は無意味である。権威は「知られていない」者においては無意味なのである。知識が権威となるためには、「知られる」必要がある。しかし、知られた権威は、というより、知られ過ぎた権威は、時に、その普及の向上において大衆性を強め、根拠のない否定的な知識の増加も手伝って、地に落ちていく。
 知識は記号にすぎないから、それ自体は実体ではない。対象が何なのか、という認知自体も主として知識の運動(思考)なので、それが何であれ、見る者が対象を概念として捉えているとき、それ自体には出会っていないのである。自分のつくりだした概念や、持ち合わせている知識に出会っているだけなのである。
 知識を安直にありがたがるのは危険なのだ。生涯本を一冊も読んでいないひとよりも、一冊だけ読んだひとの方が何百倍も偏狭になりがちだ。ひとつの体験を即座に信念にしてしまうひとも同様に危険である。見聞記の類は、信用しない方がいい。グルメに無関心で、原理としては、適切な「餌」を食する私は、ひとのすすめる旨いもの(店)情報を基本的に信用しない。「旨い」を味わうのは自分以外の何者でもないので、ミシュランも食い道楽の意見も信用しない。
 さて、芸術だ。このような意味での権威を尊重する芸術教育は知識を尊重する教育に陥りやすい。先人の、しかも優れた先人の見方が知識となって伝承され、その知識を「解凍」すれば、感動をもたらす美への眼差しを自分のものにできる、という信念が形成されることにもなる。これは、しかし、優れた美術作品が大切に継承されることと同じではない。
 解凍といえば、冷凍食品の有り難さは、プロの技を量産体制にのせるべく標準化し、安く、けっこうおいしい水準の食品を提供できる技術にある。
 「美」を感じるメカニズムは、「真」(ホンモノ)を見出すのと近いようにみえるが、まるで違うものである。「美」も「真」も正体不明な、実体なき存在であり、なぜか人間は、それをことさらに有り難く感じ、尊重するようだが。
 「真」の方はホンモノというオリジナルがあり、それではないと贋作だから、根拠は明確なのだ。すぐれた骨董商は、贋作がどれほど見事に見掛けをつくろっていても、なんだか「違う」という直感を「腹に入らない」と表現する。この感触は言語化しにくい。つまり知識化がむつかしい。
 日本では、画家佐伯祐三の贋作事件や陶芸家の加藤唐九郎の仕掛けた「永仁の壷事件」(1960年)が美術界で有名だが、観察よりも知識に拘束された学者の「眼」はだまされやすい面をもっている。
 美は、秩序の深度にあり、という自説をもつ著者においては、美に真偽は見ない。深浅があるだけだ。しかも、秩序の程度を認定する意識は、無思考状態における忘我的感知力に依存するばかりであるとおもえる。この辺のやっかいな言葉の羅列を、具体的な事例で一気に補足説明させるなら、優れた日本刀は優れたステンレス包丁より何百倍も「美しい」、という言説になる。
 名刀は、火と鋼と魂が高度な秩序に達したポイントで出会い、誕生する、からだ。

「芸術の力」13 「美しい」(3):0

森本 武(学長)