軍隊は、基本的にひとを殺す組織である。この場合、ひとは、味方ではなく、敵である筈なのだが、味方もかなり巻きぞえをくうのが現実である。つまり、時に、非戦闘員も、こどもも老人も殺す羽目になる。
 味方の損失が小さいといわれる空爆は無差別的な殺戮を承知で、そこに含まれる僅かな敵を殺傷すれば成果ありとする、元々狂気の沙汰の攻撃の中でも非情きわまる戦闘行動である。
 軍隊を核とした軍事の力が国家になぜ必要なのか。「防衛」をかかげても、軍隊は本質的にひとを殺す組織なので、道徳的にはゆるされない殺人に国家的権威を与えるためには名目上の「必要」が必要になってくる。国家の名においては、個人において許されない行為も正当化されるところに国家という社会集団の機能の危うさがあり、それゆえに法秩序による管理が強く求められるのだ。
 軍事の力を欲する国家が、その必要性をどこに求めるか。一番手っ取り早い説明は、地上には、他国侵略をためらわない無謀な政権がどこかに存在する、といった危機意識から常なる戦時態勢の必要を説くことだろう。犯罪予備者がいるから警察は解体できない、というのと同類の推論から市民感覚にはなじみがいい。
 近隣アジアに危険な政権があるやなしやの議論。しかし、メディアも世論も忘れて、頭を冷やして考えてみるに、日本の同盟国アメリカ合衆国は、軍事的行動に躊躇いのない地上最大の軍事大国であり、国連決議を平然と無視する法秩序に軽卒な、やんちゃな国家のひとつである事実を見逃せない。そのような国との密着した関係に安心できるとはおもえない。集団的自衛権が恐ろしい選択であるのは、軍事の力での紛争解決を容認し、そこに加担する政権になるからである。
 効率的に大量殺戮を可能にする武器を開発すると儲けになる、という経済的観点も軍事の力を保有する理由となっている。が、政権としては言いたくない。軍需産業は、最先端のテクノロジーを産み出しやすい。金にいとめをつけない研究ができるのは、驚くほど高額な商品でも、必要としている国家なら買ってくれるからである。
 軍事技術の民生転用(スピンオフ)は口実になるが、武器生産の特殊性(仕様の個別性が強く利益を出す量産体制がくめない)から、実は、企業にとって儲かる商売にならない。それは米国の軍需企業の苦境をみればわかるのである。(米国は明らかに集積回路やロボットに強い日本を、この領域の下請けにしたいのである)

 平和のための軍隊という発想は、平和外交を消極的にし、敵国を創造(想像)することに熱意をもつ国家から生まれてくる。軍隊の戦争抑止力は名目上のものでしかなく、結局軍拡をずるずると許してしまうのだ。
 軍備に守られた平和の実現を理想とすると、国民も民間企業も疲弊する運命をたどるしかない。
 それは、慢性の病気を治す目的の薬品に似ている。薬品は病状(症状)を押さえるが、病気を「直し」はしない。症状を生み出している生体の治癒力が回復するのが本来の治療であるが、慢性病については、根本的には病人が意識変革をふくむ生活改善に成功するしかないのに、症状の一時的消去や抑圧に成功していれば「健康」が得られたと錯覚する。薬で上がりすぎた血圧を抑えても、健康体を回復したのではないのだ。

 芸術の力は、人間が本来もっている健全な感受性、つまり、秩序への精度の高いセンサーを覚醒させる力を秘めている、と私は信じる。
 理念的平和主義も、現実的平和主義も、概念によって形成されたものであるから、ひとを本気にさせない。リアリティを運びようもない狭量な言葉による議論ばかり生じる。そこから混乱は増えても、秩序は生まれない。戦力という暴力を、平然と平和と結びつけられるのは、概念のペテン師的働きである。
 思考は、それ自体、概念としての「平和」や「秩序」を記憶から取り込んでいるが、当然、その状態をもたらしえない。記号に依存しているだけの思考は、リアリティを直接に扱えないからだ。
 また、思考はあくまでも身体内の脳内活動であり、必然的に時間と共に在る。始まりのあるものは、かならず終わりがある。思考は、その脳と共に生まれ、それと共に死ぬ。
 一方、平和、幸福、愛、美、これらの実体には、誕生も死もなく、ただ「それ」であるのだ。
 これらを概念とした思考においては、化学的、電気的プロセスに支配された物質レベルの作用でしかないので、これらの全体像を正確には感知できない。時間において切り取られた概念をとおして、平和を思考すると、敵を倒すという暴力手段が不可欠になりがちである。平和に反する要素を排除しなければ平和はない、と考えられるからだ。
 しかし、われわれは真剣に問わなければならない。暴力を含む行為からリアリティとしての平和の実現がありうるだろうか、と。
 愛は、深い秩序の理解においてのみ実感できる。その愛のあるところ、秩序のあるところに平和は自立的に、同時的に発現している。概念として在るものを認知するのではない。美への正しい感受性の育っているところには秩序があり、混乱は歓迎されない。
 愛はPOWERであるが、戦力は FORCE。秩序の破壊が戦力を行使する軍隊の任務であるのに対して、愛を意識世界に実現できる芸術の力は秩序を築く叡智になりうるのである。


カット:芸術学部油画分野3回生 得居直樹さん

日本敗戦後70年におもう 特別版:「軍事の力と芸術の力」:0

森本 武(学長)