2045年に、とんでもないことが起こると予想されている。大規模地震でも、核戦争でもない。人工知能が人間の知能を超えるという事態、である。
 この予想で、まず気になるのは、研究者たちのみる「人間の知能」についての認識がいかほどのものなのかという点である。それは単純に情報をあつかう細胞の数に基づいている。大脳の神経細胞数は百億から数百億とみられているが、技術革新によって、コンピュータの中央演算装置(CPU)上のトランジスター数が,この年あたりに、それを上回るというのである。
 それがなぜ2045年かというと、1.5年ごとに集積回路に組み込まれるトランジスターの数が倍になっていくという「ムーアの法則」に基づいての予想なのだが、これまでのコンピュータチップの進化の実績からして、ほぼ間違いないとおもわれているのだ。
 1997年、IBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」が、チェスで、その当時の世界チャンピオンガルリ・カスパロフに勝利した。そして今年、囲碁ヨーロッパチャンピオンに3度輝いたファン・フイをGoogleの人工知能研究所のDeepMind(ソフトはAlphaGo)が負かし、世界的ニュースになった。
 チェスの次の手の選択は平均24手に対して、囲碁は、200近くになるので予想の難易度に圧倒的な違いがある、という。
 安倍政権は今年5月、「第四次産業革命」と銘打つ新成長戦略を発表した。この戦略の中心に人工知能開発がある。習近平の中国も人工知能革命に取り組んでいる。どちらも能天気に経済戦略としての視点からしか人工知能の有用性を認識していないようだが、このへんは人類の産業生産物史上最悪の欠陥品である原発の開発と同じ無責任さを露呈している。
 どんどん人工知能が人間の弱点を補填し、危険な、疲れる、あるいは汚い仕事を肩代わりしてくれるロボットの活躍で、世界はバラ色に染まっていくのだろうか。
 哲学者のホワイトヘッドは「文明の進歩は危機を増大させる」と警鐘をならしてきたが、「進歩」の背後にある「危険」がどれほど意識されているのか、大いに不安である。多数の人間の失職、プログラム管理にあたる一部集団による社会支配、教育界の混乱などは、まず、だれもが想像できるが、人工知能開発者がリスクをどれほど理解し、その回避策をどれほど考えているのか。

 そもそも知能とはなにか。『明鏡国語辞典携帯版』によると、知能は、「物事を理解し判断する頭の働き」とある。一方、似た言葉の知性なるものは、「感覚によって得られた物事を認識判断し、思考によって新しい認識を生み出す精神の働き」と、知能よりも広がりのある定義をしている。
 私自身は、この知性の定義に満足してはいないが、その点は後述するとして、両者の違いを明確に意識しておかないと、実用の領域では、人工知能に全面的にお任せでいいという暴論がまかりとおってしまう。
 人工知能で置き換えがきくのは知能、つまり思考の働きにかぎるのである。つまり、人間は、記憶された有限個の情報を運用・活用して、分析、予想、創造などをおこなっているが、これらの機能がごっそり人工知能に依存できるというのは合理的に納得できる話である。
 いま、いわゆる学校という場で行われている授業の大半は、記憶を学生に求めることだとおもう。言葉、歴史、地理、法律、様々な法則、などなどの知識学習。だが、携帯端末を持っておれば、直ちに調べられる情報については、記憶の必要はない。記憶の回想、精度確認のためだけのテストは、非人間的なものとして、ますます無用化していくだろう。
 脳とコンピュータを直接接続する可能性も現実化してきたので、記憶では片付かない知性という「精神の働き」により注目しなければならなくなるだろう。
 「頭脳」よりひとまわり大きな「精神」の働きをどう認識するか。生命(人間)と非生命(人工知能)の差異、あるい非物質性(人間)と物質性(人工知能)の区別が真剣に問われるのである。

 『明鏡』の記述で、私が不満なのは、「精神の働き」の前の「思考によって新しい認識を生み出す」という限定部分である。思考は可算であり、したがってデジタル化できるが、精神のもつ知的な機能は思考を含み持ちつつも、思考のみによるのではない。頭脳外の非物質的、非身体的知性の存在こそが「精神」の真骨頂とおもえるからである。
 例えば、大乗仏教唯識派の「こころを見つめるこころ」の存在は、思考の上位にある知的作用を指している。これは決して哲学的教義ではなく、ちょっとした自己観察をやれば、だれにでも、この指摘が事実と確認できるはずである。こころの動き(思考)を常にみつめる冷徹なこころの存在に気づくはず。この思考を見つめる、あるいは思考を支配しうる知的作用こそが、人間存在の根源的価値にかかわる機能なのではないか。そこで、この探求こそが、人工知能問題に直面した人類を救う解決につながるとおもえるのだ。