ある日の朝、大学に行ってみると、楯をもった機動隊員が校門の前に数人立っていた。もともと「外部者を寄せ付けない門」という、門本来の役割をほとんど失っていた弱々しい構造物でしかない校門に、いつになく厳しい空気がはりつめていた。
 学生証を持参していなかった私は、面倒な事態にかかわりたくない気分と、過激派学生ではないと説明してみたところで入構を拒否されるにちがいないというおもいから、さっさとその場から引き上げることにした。
 日本の各地の大学で紛争が激化していた60年代終盤のころの話である。
 と書き出したのだけれど、この大学紛争の一コマ描写がどこまで事実であったのか自信がない。実際に自分の通っていた大学に一時期機動隊も入り、入構禁止令がしかれた。けれども、この校門前の異様な光景が、確かな記憶の一部なのか、当時の世相を反映させただけの頭の創作心象なのか、定かではない。記憶は、時を経て、別の記憶と都合よく結合され、もっともらいしい疑似現実をつくりだすのである。
 大学という場であんなに物騒な事が起き、連日テーマを変えた決起集会が開催されていたことは事実であり、私においても現実であったが、いまとなってはスクリーンに映し出された異界の現象におもえる。
 いま、大学は静かに存在している。隣国から、時折、実験のためのミサイルが飛んでくるが、実害がないとして、日本国民は、B級だかC級だかのグルメ情報に熱を上げ笑顔を絶やさない。
 私の研究室でも、おしゃれで、清潔で、穏やかな表情の学生たちと、茶菓子を口にしながら、卒業後の仕事の話などがかわされる。就職をめぐる社会の矛盾や不公平、人権軽視の経営者の態度などを困惑や憤りをまじえながら語りつつも、ここにいる誰もがいたって平和な気分にひたっている。
 種々のメディアから発信される「事件」、「事故」、「問題」などに、だれが本気で反応しているのだろうか。それらは話題ではあっても、存在のあまりの軽微さゆえ、行動につながらない電光文字でしかない。メッセージは、電気エネルギーの消費として生まれ、死んでいく。
 もうメディア自体がすっかり信頼を失っているのに、トランプとメディアの対立図式を説明するメディアが、トランプの非礼を批判するのも滑稽な話だ。正義は常にメディアにあるとでもいいたいのなら、その了見がすでに傲慢から出ていることを自覚しなければならない。
 商業マス・メディアにほとんど信頼をおかない私は三十年以上前に新聞は読まないことに決めた。テレビは、健康啓発番組から政治討論番組に至るまですべて「お笑い」番組のバリエーションと理解している。国会中継が一番面白い「お笑い」番組と評価しているが。ともかく、笑いたいときだけ、電源を入れる。それ以外は騒音源になるのでオフ。
 原発の開発に国家財産を浪費しつづけ、その事故後もでたらめな対応に終始し、嘘八百の情報を垂れ流し続けている日本国政府に、金と権力に批判精神を去勢されたメディアの無能も手伝って、国民は「物わかりの良さ」を示している。
 大学が、ここで、今、出番じゃないの、とおもう。しかし、無念にも、いま大学も金と権力にすっかり従順になっている。知の拠点としての大学は「何処に?!」いえいえ、もっと切実な問い、「知は何処に?」
 ありがたいことに、わが大学において、いま、校門の前に機動隊は見当たらない。
 知の拠点たる大学の建て直しは経常利益の黒字化以上に困難な事業におもえる。