88ミリ×127ミリ×1.8ミリのアルミ板に、ライトイエローのメモ用紙(コクヨ、無地メ-240-Y)の束をクリップで留める。この紙の色と質がたまらなく好き。これを、毎朝、ジャッケットの内ポケットに入れる。ジェットストリームの黒ペンとサラサの赤ペンと共に。
 購入予定品、本の抜き書き、おもいつき、詩の試作、原稿のネタ、大学運営の構想、観たい映画のリストなどなどを書き込む。
 携帯をもたない私は、忘れてはいけないことは、このメモ用紙にさっさと書くようにしている。ひとまとめの仕事を考える時は、次元の異なる検討項目が錯綜するので、このサイズではおさまらないから、A4大の紙に頭脳地図などを描く。この場合、通例、不用になった用紙の裏を使う。存在価値を失った古紙に書き込む方が精神的バリアが低くなる。恥ずかしさも、もったいなさも、価値評価も棄てて、やわらかい発想を出しやすい。
 静寂と幸福感に満ちた意識を日常に保持するためには、覚えておく事項は増やさないのがいい。人間が知る必要のある事柄はほんのわずかとおもえるので、いわゆる世間の興味・関心事に耳をそばだてる気はおきない。あれこれの事件やゴシップに騒ぐテレビや新聞は私には騒音源でしかない。「ニュース」は、「新しいもの」を意味することで、移り行く事象であると自己宣言しているのだから、常に「古くなるもの」。それ故に、メモの対象にならない。真相はなかなか顔を出さないので、ひとつの事件を追いかけるだけでも一生ものになる。
 先週、美術作家の山田正亮の回顧展を観て、作品よりも創作ノートに興味をもった。イメージを中心に置きながらも詳細な文字の書き込みがあり、ノートの視覚的構成もしっかり意識しているのを知った。これは造形作家の宿命的性向による面もあるだろうし、構想のための道具だから当然なのだろう。
 数学者のノートへの記述なども、創造的思考の不可欠なプロセスにおいてなされているので、私の感覚からは、ただのメモではない。学生時代、嵩張る文庫本の『パンセ』をカバンに入れて持ち歩いていたが、あれがよかったのは編集者に整理される以前のパスカルのメモを読める愉悦があったからだ。その意味でいえば、哲学者池田晶子の『リマーク』(双葉社、2001)は秀逸な著述である。「学生の頃より某は書き付けていた」という「認識メモ」なのだが、「存在そのものに迫る、謎の思索日記」なる副題にメモの力が遺憾なく把捉されている。
 「気配
  湿り気
  うごめきとは、すなわち微細な質量である」
            (『リマーク』より)
定まっていないからこその潜在力がメモには秘められている。