じっくり商品を手に取って、質感を確かめ、色を確認し、目方を感じたいとおもっているのだけれど、実店舗に出向くのに躊躇いがある。
 店員とのやりとりがうっとおしいのである。もっとはっきりいえば、店員が邪魔なのである。
とかく「便利」、「親切」、「ケアをいきとどいたものにする」などともっともらしいコピーがサービス産業界では目立つのだが、肝心の商品の質で勝負していない商売に頻繁に失望させられる。
 飲食店がマズイのではいかん。お店の雰囲気づくりより、味だ。大阪梅田3番街のインディアンカレーは、店のつくりは単純で、カウンターだけだが、ひっきりなしに客が来て、もくもくとカレーを噛みしめ、満足げに帰っていく。単純に「うまい」から、また客は帰ってくる。
 
 「最近、このへんのものがよく売れております。」私の手に取ったものを笑顔でみつめながら、店員は、こういうコメントを発する。
 自分のものを選ぶのに、他の誰かが何を買うかに私は関心はない。何がよく売れているか、はやっているかの統計的事実も私には意味がない。自分のものを選ぶにあたり、自分が気に入るか否かが全てなのである。世界に唯一、誰一人関心を示さなかったハグレものであれ、自分が気に入ったものであれば100%満足する。

「そちらはお客様にお似合いでございますよ。」
 先ほど顔を合わせたばかりの他人に、「似合ってる」と評価されても困惑する。信用できない。もちろん、月並みなセールストークと承知しているが、それ故に喜べない。月並みを平然と繰り返す精神は、明らかに衰弱しているのだから。
 そもそも「似合っている」ってなんだろう。
 江戸時代に生きていたような侍顔の男が、ちょっと丈の短いジーパンをはいて試着する光景に出合ったとする。「似合ってないかもしれないけれど、面白い存在感が出てるね!」という、うがった評価も成立する。
 安直な「似合っている」セオリーは、店員の凡庸な感性から無気力に発せられた戯言というべきもの。ただの売りたい根性からの発言なら、売り手としての観察眼をしっかり示すような、もう少し積極的で洗練された表現はないものか。

 衣服などの素材の説明を、聞いてもいないのに自動テープみたいに開始する店員にもよくおめにかかるが、表示タグを見ながらのアンチョコ頼みなので、ちょっとした突っ込みにはお手上げになる。
「ポリが20%入ってますので、乾きは早いですよ」と、得意顔に言われても、素材情報に独自の知識を持ち合わせてません、と「自己能力証明」を平然と口にしてしまっているのだ。客の方が、感心してあげないといけないの、と気遣いに負担をおぼえるのはシンドイ。こうなると、表示にない、興味深い素材情報はないものか、と私は欲張りな要求をよけいに意識してしまう。
 
 世の中全般を見渡せば、私のようにへそ曲がりで、注文の多い客の比率はカウントされないくらい小さいのだろう。しかし、おそらく、世界的通販会社の売上が好調な理由のひとつは、実店舗にまともなプロの販売員がいないという嘆かわしい事実がひそんでいるのではないか、と推測する。

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