「してはいけない」と、禁止事項を告げられると、俄然そのことの存在が大きくなる。
 酒やタバコが子どもには禁止されているがために、それらが、子どもには特別な魅力を持つものになる。大人の女性にただよう香りにも、感じやすい子どもにしてみると、禁止された快感が読み取れるのだ。

 私の経験である。高校の修学旅行前に3年生が講堂に集められ、準備すべき物の説明と諸注意をうけた。地学の先生が、持参を許されるカバンと許されないカバンの区別を、科学的志向性とは無縁な、ちょっと役人っぽい、それでいて、ねちねちした口調で語った。
 青いラインの入ったカバンはいいが、赤いのはいけない、という箇所を、「ここが重要なポイントなのでしっかり頭に入れておくように」と繰り返し強調した。
 青はいいが赤はダメの「重要なポイント」の理由は釈然としなかったが、結局、「高校生らしくない」という類型的、常識論的評価を根拠としているようであった。説明している当人も、納得しきっていたのでもなく、ただ、学校のルールを伝える立場上、脆弱な否定理由を強引に妥当な見解であるかのように話すしかなかったのだろう。
 この地学的、つまり合理的でない説明にあきれていた私は、「禁止事項」にただよう不合理さと、大人的事情の狡さを、いい大人になった今も忘れられないほど鮮明に不快におもった。
 「禁止」を宣告する側には、常に権威がある。権威がないと禁止の効力は弱いので、まず、禁止を宣告する側は、自分たちの権威をあらためて明確に誇示しておく必要がある。
 子どもは親に「禁止」すべき事項を求められないが、親は子どもに、できる。学生は、基本的に、先生に「禁止」を求められない。
 「禁止」を編み出す権威の存在は、そのまま、なんらかの特権的利益の存在を暗示している。

 女性のヌード写真の一部が黒のマジックで隠されていたのを初めて見たとき、大人にも「禁止」された部分があるのを私は知った。しかし、そもそも、この種の写真を掲載する雑誌は大人のものなので、子どもには、二重の「禁止」の扉を発見した気分であった。
 
 早熟な芸術家は、大人だけに許された快楽を覗き見て、それを理解し、一層早熟に成長したのであろう。
 三島由起夫は、祖母夏子に寵愛され、偏った大人の世界を、読書をとおして惜しみなく学ばせてもらったせいもあるだろう、16歳の時に書き上げた小説「花ざかりの森」は、「早熟な作品」というラベルを離脱して、いまも彼の代表作のひとつとして人気が高い。いつしか女言葉に染まっていた少年三島の意識に、男性は禁止された性として存在感を大きくしていったのではないか。

 いまやネット世界では「禁止」されたものは存在しないのではないかとおもえるほど、なんでも見える。既存の大手メディアにおける「禁止」への反抗が、ネットメディアの存在意義化しているからだ。

「禁止」の魅力:0