日本著者販促センターのHPによると、全国の書店数は、1999年の22,296店から2017年の12,526店へと、減少著しい。この19年間の年度ごとの平均減少数は514店となり、2020年には1万店を割り込む予想。
 しかも、書店としてデータに登録されていても、実質すでに「お店」でなくなっている店も相当数存在する。同サイトによると、「昔は本屋として営業していたけど、今は店舗としては営業せず、近辺の小学校や中学校に教科書のみを収めているというケースがあります。これが外商のみの本屋です。実際にお店として開店していませんので、私たちの目にふれることはありません。」とのこと。
 都会に住む本好きにとって、アマゾンや大型書店の存在があり、求める本を手に入れる苦労はさほどない。いやそれどころか、私も、ネットを通して長年お世話になっているイスラエルの大型書店は、絶望的におもえた本を何度となく在庫していてくれたので、住む街に本屋がなくても不自由はない。本の入手に限れば、住んでいる地域性に限定されることなくネット環境さえ整っていれば基本的に不自由はないのだ。
 このような状況では、リアルに存在する本屋においては、本の入手という目的以外の価値がなければ顧客を確保できない、経営を維持できないのは当然とおもえる。場(内外の環境、雰囲気)としての魅力、個性的選書の魅力、店主の人間的魅力、イベントの魅力、などが存続条件として求められるだろう。
 都会の大型書店でも、椅子の用意があったり喫茶スペースが併設されていたりで、潜在購買者を引きつける工夫に余念がない。素直にのせられて、本好きの人間は、ついつい長居してしまう。
 最近、私自身も、けっして大きくない書店の本棚の隙間に、多くの場合、手持ちの不揃いな椅子を結集させて臨時に設置された「教室」でトークイベントをやる機会が増えている。
 ホテルや◯◯会館のレクチャーとは趣がちがい、参加者の発する香りや息づかいを間近に感じながら、生物的親愛の情につつまれつつ、直裁な利害から無縁な関係性への安堵からくる開放感が醸成されるのである。
 教室という道具的に完全装備された空間の中で、仕組まれた教育理念の下、周到に用意されたテキストやパワーポイントを媒介して知が語られる「出来上がった」学校教育にはない、ちょっぴり野生の学びが、書店での集いにはある。
 ことばが、身体から発せられる肉声に比して、無機質な記号となって電子的に取り扱われる現代。ことばそれ自身に温度も匂いも夾雑物を含有した音質をも感じることなく、高速で大量のコミュニケーション(のようなもの)が交わされている。
 狭隘の場に身体的不自由をおぼえつつ、本の匂いや、珈琲の香りを共有しながら、生物人間を目の当たりにして人間を探求する時間は、記号的言語には運びようのないコンテンツに遭遇する機会となる。

写真:Books Gallery Coffee iTohen (大阪北区)

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