分かりやすいものは、利用され、広まる。分かりやすいものは、また、全体像は抜きにして、目立つ所、表現しやすい特徴ある部分だけがお手軽に切り取られ、安直に強調されるので真実の姿からほど遠いものになりがちである。そこで、概して、「分かりやすいもの」は真実相から離れていくのである。
なんでも指数にしてスッキリさせようとする趣味が蔓延している。これは現象を数値に置き換えると演算しやすくなる、つまり合理を何よりも心地よくおもう頭脳の納得にむけて、ことを処理しているにすぎない。指数で表現しやすくするには、「複雑さ」と「例外」が排除される。夾雑物は捨てられ、単純で均質なものに仕上げられる。
GDP(国内総生産)が高ければ「いい国」となる。が、貧富の差が激しく、大半が貧困層の国もある。株価が高ければ「いい会社」となる。が、労働環境が劣悪であるという面があっても、そこは見えない。
偏差値で学校の難易度を表現するのも、「いい学校は入りにくい」と前提し、そこを数値で比較すると分かりやすいからである。特定の母集団における相対的位置を示すだけの偏差値で、存立条件の違う多数の学校のレベルを、その数値だけで評価しようとするのは妥当ではない。「居心地のいい」学校や「楽しめて、自分流に自信がもてるようになる」学校をみつけたいとおもっているひとには偏差値は役に立たない。
IQ もしかり。もともと、先天的に学力が低い異常児の選別のために開発された検査方法による指数なので、これで秀才、天才を絶対的にすぐれた能力者として特定できるものではない。
近年の研究の一つ、心理学者ハワード・ガードナーによる多重知能理論は、脳力をもっと広い視野でとらまえようとしている。ひとはそれぞれ一組の多重知性(multiple intelligences)をもっており、少なくとも8から9の特定分野で才能をのばすことができる、という。内省的知能(自己理解能力)や博物的知能(モノの識別能力)などを問題にしているところに興味が持てる。
さて、芸術を考えるにあたって、指数はどうか。芸術を能力の問題としてとらえて芸術力指数などとよべるものを編み出せるとなると、芸術大学の入試で使ってみようという妄想がわいてきそうだ。
すでにふれた「複雑さ」と「例外」を排除して、強引な単純化と標準化を押しすすめていくと、なんとか芸術力指数のようなものがみえてくるだろうが、単調で月並みな「無難さ」だけが露呈しそうだ。
私はかつて学生たちに「下手な絵を描く」という課題を与えた。「今日はおもいっきり下手な絵を描いてみよう。そして、もっとも下手な作品をみんなの投票で決めようではないか」。うまくない学生にも「勝者」となる稀なチャンスがめぐってきたはずだが、だれもが困惑した。
芸大では、学生それぞれの感覚と力量の違いはあっても、指向性においては単純に一方向、つまり「うまく描こう」としてきたはずである。その方向を180度ひっくり返すことを求められると「どうすればいいのか」分からなくなる。うまい絵の例は、美大受験生向け雑誌から美術書まで世に公開済みである。「ヘタウマ」なる画風が受けた時期もあったが、それも「うまい」の変種である。
音程をはずすとブザーが鳴る装置は現存する。かといって、音程をはずさなければ感動を与える歌になるか、というと、それは別の話である。いい役者は、音程をはずしてもひとのこころを揺さぶる歌が歌える、と幾人かの過去の大役者を憶い、私は確信する。
一枚の絵画のもつ芸術力を指数にして分析、分断する手があるのか。安定した絵画には「秩序」はあるが「変化」に欠ける。激しい筆使いの絵画は「変化」に富むが「秩序」が失われている。
「秩序」指数の高い絵画は調和的だから落ち着く。「変化」指数の高い絵画は気分を高揚させるので元気が出る。まあ、これくらいのことは無難にいえるのだが、言うまでもなく、それが芸術力の総体を示しているなどとはいえない。





































