壊滅したワルシャワの瓦礫の町の一角に残された1台のピアノ。ユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマンは、ショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調「遺作」を、おもむろに弾き始めた。憂いに満ちた美しい旋律が、戦渦に疲弊した空気を浄化するかのように、響きわたる。
 命を脅かされてきたドイツ軍将校に見つかって、自分はピアニストであると正直に告げたがために、「何か弾くように」との命令に従わざるをえなかったシュピルマン。
 ユダヤ系ポーランド人映画監督ロマン・ポランスキーは、この作品「戦場のピアニスト」の製作において、長年封印していた自らの心の暗部を並々ならぬ決意をもって覗き観ようとしたのである。
ポランスキーは、幼い頃、ポーランドのクラクフのゲットーで過ごし、収容所で母を亡くした。ホロコースト(組織的大量虐殺)を描いた映画「シンドラーのリスト」の監督をオファーされたが、体験と向き合う覚悟ができていなかったため、断った。(同じユダヤ人であるスピルバーグがその監督を引き受け、1993年公開された) 
 この映画の題名(原題はthe pianist)が語るように、ピアノがうみだす音楽と戦争のもたらす虚無が鮮烈な対比的存在として見事に描かれている。そこに表現された対比は、美と醜であり、解放と閉塞、あるいは天国と地獄、悦びと絶望など、様々な想いを喚起するものである。
 音楽は音による。音は、空気をふるわす振動という物理的変化でしかない。その音が人間の意図において支配され、ある意向にそって構想され、高度に調和的に配列されて生まれた集合体となり楽曲が産まれる。それを聴く者の意識を動かす。音楽の力である。
 ショパンの楽曲にただよう憂いは、彼の故国ポーランドへの切ない想いであったり、何か特定の事柄についての悲哀と関わるものではなく、人間の集合的意識を染め上げている宇宙的哀しさの表現であるように私は感じる。
 この映画は、音楽の存在意義とその力の役割をだれにも分かる形で表現してくれている。ということで、音楽の力をうまく伝えてくれた映画「戦場のピアニスト」に注目したいのである。
美しい旋律を生み出すことのできる人間。その人間が、戦争という残忍で醜悪な事態をももたらすのだ。第2次大戦後、「レンガのヒビに至るまで」復元されたワルシャワ歴史地区はユネスコの世界遺産に登録された。が、戦争がもたらした20万人を超える市民の惨めな死は、「文化価値」というお飾りで帳消しにできるほど「軽いもの」ではない。復元への並々ならぬワルシャワ市民の決意が報いられたともおもえない。
 戦争がもたらした荒廃は、街の破壊以上に、人心にすさんだ意識をもたらした。音楽になにができたか、と問う。私は意識から発する希望のエネルギーが、発生時にはどんなに小さくても、やがて大きく、強く育つことが起こりうると確信する。それは生物の成長をみれば明らかだ。
 小さな火種がなければ大火の発生はない。ひとつの曲から発した癒しのエネルギーが、ひとの意識の中で大きな力に育つのである。
 私は戦後生まれで、ワルシャワの悲惨な情況を書物や映画をとおしてしか知らない。その場に立ち会えなかったことは幸運でもあり、不運でもあった、と考える。人類の愚かさを、その現場で直視する機会をえていたら、いまの怠惰な自分を奮い立たせる圧倒的な起動力を手に入れられていたかもしれない、と想像するからだ。
 映画は、音楽と同様に、直接に生理的な変化を鑑賞者の生体にもたらす媒体として、並外れた威力をもっているとおもう。専門家の評価の高い抽象画の中には、一般大衆には全く理解できず、何の感動も、学びももたらさない絵画が存在するものだ。また、難解な言葉で書かれた小説は、読むものを拒絶しているかのようで、特段の知的冒険心をもたない大衆にはその作品に触れる気力さえわきあがってこない。映画にも難解な作品はあるが、映像や音楽、登場人物が与える印象は具体的なイメージを通して得られるので、心身が確かな反応をもつ。訳のわからない話であっても、映像が喚起するメッセージを、身勝手に感じてしまえるものだ。
 ヒットラーもレーニンも映画の並外れた大衆煽動力を熟知していた。私は、映画狂の父の趣味の「犠牲者」として幼児期から映画館で長い時間をすごす境遇にあったので、映画に惑わされ、教えられ、泣かされ、笑わされた。かくして映画は私の「師」になったが、「師」はあまりに偉大で、小心な私は映画の途方もない奥行きに、ちょっとした恐怖さえ覚えている。

「芸術の力」03 映画の力:0

森本 武(学長)