0と1の差は1。1と2の差も1。同じ1であり、同じ分量を示しているだけなので、0に加わった1も、1に加わった1も、量、質ともに違いはない。
 にもかかわらず、何も存在しない場所に忽然として何ものかが「ひとつ」現れた、という驚きと、「ひとつ」のものが在ったところに、もう「ひとつ」が追加されて2になった場合の受け止め方の違いは圧倒的に大きい。最初の子と2番目あるいはそれ以降の子の誕生時の感激の違いを考えてみれば分かりやすい。
 1から2への増加は、1という存在に寄りかかって、連続した動きの中での追加と考えやすい。容易な予想の中に在った進展におもえる。それに対して、0から1への増加は、只事ではない。無かったところに何ものかが現れたのだから。そこにどのような働きが関与して、無を有に次元変換したのか。
考え出した知性と作り出した”手”がなければ出現は可能にならないはずだ、との印象をもってしまう。
 0から1への変化は、つまり、「出現」であり、「誕生」であり、「創造」である。この辺の事情に、「よほどなこと」としての創造への尊崇と神秘的な想いがうまれる基盤があるのだろう、と推測する。そして、無に対する有の、より高い価値への賛美が出現物への誇らしさを生み出すのだろうし、出現させた者への功労が高く称揚される。
 0を発見したのは6世紀のインド人といわれている。この0の数学への貢献はもちろん、人類文明文化に対しても計り知れないものがあったわけだが、インド人の存在しないものへの関心が功を奏したことになる。紀元前1000年頃に成立したヴェーダには、非存在のものへの崇高で神秘的な眼差しがみてとれる。だれが書いたかは知られていない、その文献において、宇宙の最高原理であるブラフマンは「虚空」とみなされている。無い者が根源的な大本だという。なぜなら、在るものは必ず滅びるので、滅びないものこそが、絶対的な存在といえるものであり、それこそが大本でなければならない。
 そこで、ブラフマンは、キリスト教の神みたいに「在る」のではない。「無い」からこそ神の名に値する。琉球の信仰における聖域の御嶽(うたき)も、建造物をもたない聖性、という発想である。神の来訪の場としての御嶽は、西洋建築にみる荘厳で巨大な教会(作る極致)とは対比的に、森の中の空間そのもの、つまり何も「無い場」なのである。
 とはいえ21世紀のいま、経済力や政治力、あるいは生産力が高く評価される社会に生きる大多数の市民は、モノ(金)の豊かさを求め、モノ(金)による解決を重視しているようである。
 そもそも人間たるもの、モノを作りたがる。というのでH.ベルクソンは、ホモ・サピエンス(知恵のある人)との対比としてホモ・ファーベル(作る人)なる語を造った。人間は、他の動物と違って、「作る」行為を得意とし、そのことによって生存環境を改善し、自らを形成するという認識である。
 何を生み出すかについては深く探求せず、生み出す人を、ただただ創造者と讃える気風が培われてきた。(化学兵器や原発のような厄介なモノも一部の賛美者によって高い評価を受けている)無一文の貧乏人より、巨万の富をもつ人が「偉い」という、かなり乱暴な評価法がいつの間にか広がっている。富を築いた(作った)功績は、財産形成の手段を問わず、賞賛されるのである。あこぎなビジネスでお金持ちになったひとを勝者とし、律儀に、誠実に商いをいとなんできた貧しいひとを敗者とする考えも、「作る」ことへの盲目的な賞賛という基盤から生じてくるようにおもえる。
 「作る」即ち「何ものかを出現させる」という認識は、うっかりしていると、創作行為を「小さな神様の技」とまで思い込んでしまう不遜な過大評価に導きかねない。
 無条件に「作る人は偉い!」ともてはやす信仰を”工作至上教”と名付けるなら、芸術ヤルひと、ヤラないひとを含め、この教えの信者は途方もない数に達するのだろうとおもう。「作る人」は勝者であり、「作れない人」は敗者になるのか。高額な芸術作品は、その分だけ高い芸術性をもつのか。
 また、創作のモーチベーションが、だれよりも「偉くみられる」からという稚拙な向上心に依るとしたら、その創造は随分と軽薄で卑しい結果におわるといわざるをえない。実績の手薄な研究領域を探し出して斬新な論文に仕立て上げる学術界の職人は、真理探究者の高潔さに欠けるのに似て、芸術創作のモーチベーションの卑俗さは、創造の神聖さを損なうものである。
 数学能力に秀でたインド人はIT産業において高収入を稼ぎだしている。一方、無いことをかぎりなく尊重するインド人は、在ること、持つこと、生産することに熱意がもてず、世俗の富裕者をうらやむこともない。
 芸術の力は「作る」行為にだけ発揮されるものではない。無為の神聖さを知らない意識から生まれるものが「すぐれた芸術」になりうるだろうか。芸術に勝ち負けはない。飽くなき量への熱望は、芸術行為を大仰な騒ぎに巻き込み、陳腐化させるだけである。

「芸術の力」04 「作る動物」は偉いか?:0

森本 武(学長)