わが京都嵯峨芸術大学芸術学部の再編作業が2015年度の学部新生を目指して進行している。
このコラムのテーマである「芸術の力」を、この芸術学部再編にあたり、実践的で本質的な芸術教育の改善に生かしたい。特に入学時の基礎教育のところで、学生たちがどのように「芸術の力」に出会い、感動し、自発的な興味や問題意識に駆られて自然に学ぶ喜びを体験してもらえるか、に力点をおいて検討している。学生たちが「芸術の力」を発見し、それとの格闘が生起する場の作り方、教員の意識・態度に対するオリエンテーション、この力を実感するにふさわしい斬新なテーマの考案などの重要課題について侃々諤々の議論が続けられている。
大学をよくしたい、と考える時、そもそも学校とは何なのか、という根元の問いを無視することはできない。
フリースクール運動の指導的理論ともなったイヴァン・イリイチの脱学校論(1970)では、学校が制度としての権力になってしまっているという問題が鋭く指摘された。学校は、特に歴史をもち社会的に評価の高い学校では、ひとつの権威として、ひとつのゆるぎない構造体として能率を追求して行く結果、皮肉にも学生の自立を損なうという危惧が存在する。
芸術が、能率と手を組んでしまうと厄介である。
「教育の現場」という学校観は、教育観の矮小化にもなる。人生の営みがあらゆる場、あらゆる時において進行しており、それらの場と時において学びが生じているという事実を無視して、教育を学校という物理的場と時間枠に限定し能率を高める手法は、機械加工や土木工事では有効だろうが、教育には無効である。それでもなお、学校の固有な存在理由がある筈だし、「学び」の全体像を意識しながら、学校の役割部分をなんとか理解し、それを形あるものとして実現しなければならない。
芸術大学という学校についても同様である。芸術教育を能率という観点から論じると、学生の作品は、精度の高いネジづくりと一緒にされかねない。
現在の世界には数えきれない職業があり、数えきれない生き方、暮らし方がある。より具体的には、およそ71億6千万の人生が、それぞれの信念や諦め、希望や絶望をかかえながらも、地上で営なまれている。さて、これらの人生にいったい学校はどれほどの影響を与えており、与えてきたのだろうか。学校はどれほどのひとを真に賢くしたのか。どれほど多くの人間に、他人にやさしくする行為の内包する恩恵に気づかせたのか。どれほどの人間において、誕生から死までの時間を感謝し実直に生きるこころを育てられたのか。
ひとを傷つけてはいけない。この単純素朴で自明にみえる規範すら、世界の大人たちは守ることができていないようである。高度に近代化された国には高度な教育機関が存在する。それらの国では、高い比率で高等教育を修えたひとがいるはずだが、世界平和への貢献がその学歴に比例して大きいようにはおもえない。学術教育環境のトップランクの大学が、世界をわがままに支配する意欲に燃えた人材を多く輩出しているとしたら、大学評価の基準におおいなる誤謬があると糾弾しなければならない。
5300万を超える死者を出した第2次大戦以降だけでも、犠牲者数は、朝鮮動乱の300万、ベトナム戦争の230万、ビアフラ内戦の200万、アフガン内戦の150万などとなっており、あきれるばかりの蛮行が止まない。(数字はレスター・R・ブラウン「地球白書1999-2000」に依る)
芸術を学ぶこととは、無節操な知識のやみくもな獲得ではなく、知識として権威づけられた言説への疑いを、ひるむことなく指摘することであり、それを生きることなのである。そもそも、芸術表現とは、この指摘がかたちを変えた行為であり、生(いのち)の声の物質化なのだ、とおもう。このような意味における表現は、フランスの哲学者フーコーが論じた「自分の人生そのものを芸術作品にする」という時の作品を産み出す筈のものであろう。
イラスト:専攻科2回生 星野咲絵子さん





































