どれほど賢くても、どれほど善良であっても、「場」が読めないと、友達を失い、恋人を失い、家族を失い、職を失いかねない。と、世間では、パソコンが使える能力と共に、「場」を読む力がまともな社会人の必須の能力と認められているようだ。
 一般常識テストとともに「場」の読解力テストなどが、どこかの企業の入社試験などで実施されているのだろうか。
 「場」を読む力は、言葉で表現されていない、あるいは、表現された言葉に囚われない真相を認識する能力といえる。
 「場」は「空気」に置き換えられる。それぞれの場には特有の空気があるはずだから、その空気を感知する機能が優れていれば、ヘタなことはしないですむはずなのである。もちろん、この「空気」は窒素と酸素などで構成された気体ではなく、気配ともいい替えられる繊細な情報の集合体である。生物としては、そこに含まれる臭い成分や生命に害悪な因子を嗅ぎ分ける能力も必要だが、人間社会の構成員としては、自分の態度なり発言なりを、それに基づいてなんとか調整できる、つまり、保身に有効なものとして「空気」を読み解く能力が求められている。
 芸術の世界でも、「場」は重要な意味をもつ。モノを作るのではなく、「場」を創る芸術領域がある。ちなみに、物理学の「場」概念は、基本的に、力学を構築する理論に乗っかっているが、芸術の「場」を理解するためにも力の作用を認める必要があるとおもう。
 事例をとおして考えてみよう。花瓶がひとつある。その光景は日常の生活場面で親しんでいる「在り方」なので、花を挿す道具とみてとれる。
 同じ花瓶を3本並べてみる。置かれている場によれば、商品の陳列とみなされる光景であろう。美術ギャラリーの床に3本の花瓶だけが置かれていると、それらは芸術として創作された作品とみなされるだろう。しかし、その花瓶が百円ショップで見慣れたものなら、花瓶自体は作家の創作物ではないようなので、それらを並べ置いた意図において芸術創造と認め、いわゆるインスタレーションという表現形式であると納得できるだろう。
 インスタレーションは、固定(fix)あるいは配置(place)という一般的行為を意味する用法を抜け出して、モノと、それに絡む光や音などの複数の要因の関わり合いをまとめた表現スタイルとして定着している。
 ここでは、モノが使われていても、モノそのものに語らせるのではなく、一定の意図のもとに配置されたモノの産み出す関係性が意味の発生源になっている。この関係性は、「場」を特定のものとし、意味の力の作用範囲を示すことにもなる。(花瓶間に働く引力も意味に影響を与えているだろう)また花瓶とそれを囲む空間との間にも同様の作用が働いているのである。そもそも、モノと空間は、エネルギーの濃度、あるいは集密度の違いにすぎないという点で、連続しているのだ。
 インスタレーションは「場」の創造であるから、そこには特定の「空気」が産み出されているはずだ。基本として、「場」と「空気」は等価だが、一方につよく反応しやすいひとがいても不思議ではない。
 もし、現実の暮らしの「場」(家の空間)をインスタレーションとみなすなら、そこにおいては、住人の生活の歴史や暮らしの思想を織り込んだ膨大な情報が「場」の中に包含された芸術作品となって顕在化するはずである。
 国立民族学博物館でおこなわれた「2002年ソウルスタイル」では、ソウルの高層アパートに住む李さん一家の暮しを克明に再現する展示が注目を集めた。その構想の実現に向けてのスタッフの並々ならぬ意欲とその成果に私は感動したが、生活資材がいざ展示会場に持ち込まれると、生(なま)の生活場面に存在する夾雑情報がかなり失われ、不自然にスッキリしているとも感じた。
 「場」を成り立たせている要素を全て拾いだし、それをどこか別のところに移送すれば「場」が再現出来るだろうか。「場」は要素還元できない、「場」固有の全体性といってもいいナニモノかにおいて成り立っていると考えるべきだろう。磁場や、空気の流れ、歴史的集積物(不可視の情報も含む)、霊気などといった微細な要素、確定しようのない要素もたたみ込まれていて、ある時に、ある所に集まって作られた「場」は、とらえどころのないものとなっている。


イラスト:専攻科修了生 星野 咲絵子さん

「芸術の力」  08 「場」を読む(1):0

森本 武(学長)