つくってみよう、描いてみよう、という発端は、「私」の意識における活動にある。「私」という場から芸術創造がはじまる。
 手元に紙切れがあれば、そして、描いてみようという意欲がわきあがり、行動にうつす決意がかたまれば、サインペンなり、鉛筆なりを取り上げて、直ちに描ける。「私」の表現への欲求は、非常に短い時間内に実現してしまう。(その仕組みを図式的に説明するとこんなふうだから、だれでも、いつでも描けるのか、というとそうではない。表現意欲の高まりや、決意に導く動機などが不活性なのが常態だからだ。と、あらためて、当たり前な事を述べておく)
 「場」を考えるという立場からは、「私」なるものがどこに位置づけられているのかという点と、その「私」が活動する範囲をしめす「場」についての認識が気になるのである。
 そもそも、芸術を論じる、表現者のありようを考察する、といった抽象度の高い議論に関係する場合に限らず、「私」の在処(ありか)探しは、日常の生活の全面にかかわっているはずであるが、そのようなことはほとんどなされない。あまりにも「私」は、「ここ」にいるという感覚を自明のものとして受け入れているからだ。
 ひとりの人間の人生を語る、というケースを考えても、わざわざ点検する必要もない「私」を語るのであると信じられているので、「私」の在処さがしは行われず、あまりにも明白な事実として、戸籍に記された名前の人物が「私」を名のっているのであり、時に別の愛称で呼ばれる存在が「私」であったりするのだけれども、この「私」は、自己を守るために危険を避け、日々の暮しを支える収入を確保するために働き、好きなものを選んで食べ、好きなひととセックスし、気がすすまない町内活動に人目を怖れて協力しているのである。
 また、この「私」は、自分が他のだれとも違っているとか優れているとかの主張を、他者に認めてもらいたいのだろう、独自の気持ちや考えを何かで、例えば、コトバで、あるいは絵で、あるいは音楽で、伝えようとする。
 しかし、この「私」は、「ここ」で、こうした行為を意識や肉体をつかって為しているとしながらも、その「私」そのものの存在根拠、つまり「私」として立ち現れている真相については、関心も理解もない。その観察眼が希薄なので、「私」についてのいきさつについては、自覚しようにも、できない。
 もっとも確かなはずの存在は、ほとんど存在しないほどに、もっとも希薄な自覚に飲み込まれているかのようである。誕生以来のあれこれの記憶(体験)が「私」を形成してきたのだが、すでに在る「私」に溶け込んできたという感覚の方が、大方のひとには、なじめるのかもしれない。
 「私」とは誰か。どこに在るのか。あなたがやっているあれこれのことは、本当に、あなたの信じる「私」の仕業なのか。
 有名なマズローの欲求段階説のヒエラルキーの頂点には「自己実現」がある。この「自己」は誰なのか。この自己を、「私」の実体としてしまっていいのだろうか。
 芸術の役割を「自己実現」とさらりと述べる人もいる。自分のデザインしたコップを世界中のひとに使ってほしいと願望するデザイナーがいても驚かない。仮に、71億人のひとが、X氏のデザインした1個300円の安価なコップを使ったとし、1個あたりのロイヤリティー契約を小売価格の2%とした場合、X氏の収入は426億円になる。この空虚な想像も、数字上は相当に現実的である。さて、もし、10年で71億個の売り上げを達成するとすれば、年収42億6千万円。大卒男子の生涯所得3億2千万円(2012年度平均)の13人分以上の稼ぎとなる。
 売り上げで「自己実現」を達成しようとするとこんな風に通俗的な成功談になってしまう。かといって、宗教的修行の到達点とされる聖人に「認定」されることなら話は違うのかというとそうでもない。世間という場において「私」が特定の存在として認められたい意欲があるなら、報いられる場は「私」においてであるから、それもごくふつうな利益なのだ。
 十分な教育を受けていなかった、貧しいインド人雑貨商のニッサルガダッタ・マハラージは、あるとき、「’私’は、ヒトではなく、純粋で静謐な目撃者なのだ。」と知った。もし、この目撃者が、X氏の行動をみつめているとしたら、X氏の自己実現は大きな意味をもたず、それよりも、自己消滅を味わい知る何者かに出会うはめになったはずだ。
 社会の一員としての「私」は衣服を着ている人格(personality)である。一方、その目撃者は裸の個体(indivisuality)といえる。
 フラー・ドームで知られる建築家であり思想家のバックミンスター・フラーも、個別な人格をもつ「私」ではなく「人類」という集合体を生きた人物であり、目撃者としての自覚をもっていたようにおもえる。
 33歳のフラーは、ある出来事に絶望してミシガン湖に身を投げようとしたとき、「あなたはあなた自身を抹殺する権利はない。あなたは宇宙のものだ」という声を聞き自殺を断念したという。(彼自身は、この体験を「個人的幻影」と呼んでいる)それ以降、フラーは、「私」を棄てて、「最小エネルギー消費から最大利益を引き出す」という人類救済に向けた創造研究に没頭する。

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森本 武(学長)