我が家から10分も坂道を山に分け入れば、神戸港が眼下に広がるスポットにたどり着けた。樫の樹木の甘い香りをふくんだ風がここちよい六甲山麓の秘密の“見晴し台“(花崗岩が剥き出しになった3畳間ほどの地面)で少年の私は、銀色に輝く海面を何時間もあきることなく見つめていたものだ。
 メリケン波止場には小さな艀(はしけ)がぎっしりと停泊しており、外国籍の大型客船の水先案内に備えていたのだが、今おもえば、その光景こそが港町コウベの活気ある風情をうみだしていたのだ。飛行機旅行が本格化する以前の話である。
 自分の生まれ育った街を愛するのは自然な心情である。よほど悲惨な体験の記憶に苦しめられているのでもないかぎり、ひとは過去を思い出というロマンチックな空想の中で美化し、愛でるからである。
 山と海に囲まれたお洒落な港町。居心地のいい喫茶店で、うまいパンとコーヒーを堪能し、異国の多彩な料理が楽しめた神戸。この町を誇りにおもう。とはいえ、これでは、タウンガイドの紋切り型解説そのままだ。私における神戸の住み良さは、地理的にも人間関係的にも、また行動学的にも、常にそなわっている解放感からくると意識してきたのだが、それはきっと歴史の重みの無さに依るように思える。威厳とか誇りといった不可視の価値観の呪縛が、その「場」にはなかった。
 建築・ファッション誌「ウォールペーパー」を立ち上げ、一世を風靡したタイラー・ブリュレ(英国)の編集になるグローバル情報誌「モノクル(MONOCLE)」が、2014年度の「世界の住みやすい都市ランキング」(正式名は「生活の質調査2014」Quality of Survey 2014)を発表した。
 1位はコペンハーゲン。日本の都市では、東京が2位、京都9位、福岡10位。
上位25都市の中に神戸はない。残念!私的に高得点を期待していたロンドンも入っていないが、その理由は「ロンドンの警察は信用できない」とのことで、自国に厳しい評価だ。
 「モノクル」誌が重視した評価基準は、安全性・犯罪の少なさ、世界とのつながり易さ、気候・日光、建築の質、公共の交通機関、許容度、自然環境、都市デザイン、ビジネス環境、積極的な政策決定、医療などと多岐にわたっている。
 コペンハーゲンは、私も何度も滞在した経験から、文句なしに気持ちのいい都市だとおもうが、ツーリストには物価の高さが過酷である。自国を「幸福な国」と感じる国民の比率が世界一高いデンマークの首都だから、手厚い福祉政策の恩恵が受けられる住人は大満足にちがいない。
 優れた都市を生みだす芸術の力は、どのように作動すべきなのか。都市に求められる多様で多重な機能を巧妙に縫い合わせ、その地の気象条件や地形学的特徴などの影響を十分に考慮しつつ、住民を主体とした生活文化の最適な熟成装置として機能する「場」を創造しなければならない。
 芸術の力を駆使する者が、一定の歴史をとおして形成されてきた地域住民の意識、性向を実感をともない理解できれば、その文化と当地の政治・経済を統合するかたちで、「場」の活力を創出できるはずである。
 そのはずなのだが、快適な都市空間の創造は、途方もなく厄介な事業といわなければならない。加えて、「場」はモノや金といった物量だけで改善できるものではない。
 「いい街」の印象の成立条件だけを考えても、簡単ではない。ひとにしっかり記憶されるため、目立つと同時に愛すべきシンボル(ランドマーク)がいくつか必要である。山、川、池、湖、海といった自然要素と、タワー、ビル、道路、広場などの人工要素が、わかりやすく親しみやすい記号性を持っていながら、実態としても、それぞれの要素がここちよく活動的な居住性をうむように関係づけられている必要があるだろう。
 都市という「場」は、刺激的で機能的な建造物の集合体であるのみならず、情報の集積、発信受信の仕組みが分かりやすく巧妙に構築されていなければならない。そのためには、直感のみではまかないきれない、大量の事実情報と文化的価値観などへの深い理解が必要であるのは当然なのだが、よく考えておけばうまくいく、というほど単純なものでもない。
 オスカー・ニーマイヤーが公共建築を担当したブラジルの「未来都市」ブラジリヤやイタリアのエウルなどの新都市づくりが厳しい評価にさらされているのも、この困難を証明している。
 「場」を支配する力は、繰り返すが、物的な条件や情報・金の流動性、活動性だけでは説明できない。輝く都市、汚濁した都市、不安な気分の漂う都市。生き物みたいに都市には個別な表情がある。
 エウルはファシスト政権樹立後のムッソリーニによって強力に進められた計画であり、広い街路と巨大でシンボリックな建造物からなる思考上の秩序を究めた新都市ではあったが、ファシズム・イタリアの象徴というコンセプトの際立ちは、ひとの暮しの器としては少なくない不都合をもたらしたといえる。30年以上前に現地を訪れた私は「人工」の味気なさに失望をおぼえた。
 くれぐれも「芸術の力」音痴の総理や自治体の首長が、住民の都市を、自己の政治的信念の表現の「場」に利用することのないように見守りたいものである。

「芸術の力」10 「場」を読む(3):0

森本 武(学長)