美は、ひとを幸せな気分にしてくれる。
 幸せを求めて、ひとは美を体験する機会を歓迎するのである。
 美しいことで知られた場所に観光と称してわざわざ出かけていく。美しい朝陽を見ようと、眠い目をこすりながら、ガンバって早起きする。美しい星空を鑑賞したいがために、寒い夜にもふるえながら、気の遠くなるほど長い時間を旅してきた星の光に目を凝らす。少しは我が身が美しいひとに見えるかもしれないと、美しい服を買い求める。美しいひとの登場する映画や演劇を求めて、劇場やレンタルショップに出向く。レトルトや即席の乾燥食品が食材であっても、美しい器に盛ると、食事のランクが少しは引き上げられて、幸せな気分が増してくる。
 美しい世界はパラダイス!美しいモノ、ヒト、万歳!

 現実となると、しかし、いたるところが「美しくない」のである。
 靴やサンダルが散乱した玄関。ブーツのストレッチャーなども居心地の悪い位置に置かれている。ペットボトルのキャップがひとつ、床に落ちている。数本の傘が、締まりなくたたまれた状態で、レールハンガーに吊るされている。これは、仮想の話ではなく、ある日の我が家の玄関の様子である。
 「美しい世界」への熱望が欠けると、こういう光景になる。
 「美しい自分」に向けて熱意がもてないひとも、自己の肌色と全く不調和な色への自覚もなく、しわくちゃな布切れをまとうことに頓着しない。
 我が家の玄関もわずかな労力でパラダイスになる。靴をすべて下駄箱に収納し、普段使いのサンダルだけ床に残して、落ち着きのいい所に配置する。これだけでいい。これだけのことで、玄関の空間がスッキリし、なんとか人間の住まいのもつべき品位が還ってくる。つまり、醜い世界にあっても、わずかな決意をもって、現場への介入にふみきれば、美しい世界が、さほどの苦労なく、立ち現れてくるのである。

 美しいものを見ていると、嬉しい。
 美しいものが在る、という光景は、そこに幸福が形になっているのを実感させるので、それだけでひとつの出来事におもえる。
 美しいひとがいる店は、華やかな空気につつまれる。そのひとの発する不可視の光輝の弾に撃たれると、心地よくなったひとは、むやみに多弁になり、おもわず口元がゆるんでくる。

 常に、持ち物や寝起きする場に、美しさを求めるひとは、不要なものを知っているひとでなければならない、とおもう。持ち主として「必要」なものには、機能の観点だけからではなく、満足をもたらす要素が必ず含まれている、と信じるからだ。
 必要なものだけが選ばれて、それぞれの収納位置がきっちり割り振られた鞄は、「美しい箱」となる。持ち主の生活観、仕事観、美意識などがあいまったルールが想定されていて、それに適う秩序がある。そのとき、その鞄は美しくなる。この「美しい箱」においては、モノも居心地がよくなり、なにものも迷い子にならない。
 この秩序を「芸術の力」とみることができる。秩序は、美の一面でもあり、知の一面でもある。散乱した多くの要素、あるいは関係の薄い多くの要素を、なんらかの性質において結びつける働き(力)があるところに、秩序が生じるのだから。
 この「美」と「知」を併せもった秩序が生じるという話が分かりにくい方には、国境を越えて愛されるプロダクト製品を見ていただきたい。ディーター・ラムスのブラウン製品、ジョージ・ネルソンのハーマンミラーのオフィス家具、あるいはアルネ・ヤコブセンのエッグチェアー、これらはまず間違いのない美しい見本である。

「芸術の力」11 「美しい」(1):0

森本 武(学長)