朝、テレビの電源を入れると、昨日や今日の出来事などがニュースとして飛び込んでくる。災害あり、交通事故あり、殺人事件あり、科学上の新発見、首脳会談の成果、天皇家の行事、スポーツの結果、などなど。この世はさわがしいね、とため息が出る。
 アナウンサーは、残酷な事件報道から、人類の快挙を告げるニュースまで、その多彩な内容と事象がもつ性格の明暗に同調するわけでもなく、ほぼ同じ表情で原稿を読み上げていく。
 どこかで、何かが、毎日起こっている。
 どこでも、何かが常に起こっている、と言い換えた方がリアリティが増すかもしれない。
 我が家だけでも、自分個人に関わる事柄だけでも、いろんな出来事が起こっている。すべてについて名称を付して明らかにすることなどできない。そもそも出来事をどの単位で区切るか、名案がない。
 さて、自分に今日は何が起こるのか。2時間後には、何が起こるのか。頭脳が把握しているのは予定(願望)でしかなく、現実に「起こる」出来事は知りえない。
 ただ、連続している生の時間の流れの中にあって、われわれが出来事として、わざわざ一部の事象を切り出す行為は、当人の意識の持ち様、関心、問題意識などからくるから、誰とも共有できていないのである。

 ある日の朝、静かな住宅街を抜ける車道の横の歩道を私は歩いていた。突然、静寂を破るドカーンという音が鼓膜を震わせた。そちらに目を向けたら、若い女性が、空中に投げ出されていて、放物線の頂点に達した後、落下していった。私の頭脳はスローな動きと捉えていたようだが、そんなはずはない。0.5秒もかかっていない人身事故なのであった。
 人間がロケットのように空中に放出された、この出来事は、何度もなんども私の記憶の中で再生されてきた。それは悲惨な事故として再生されるのではなく、シュールな映画のワン・シーンのように、優雅で、幻想的な動画として、予期せぬときに再生される。
 出来事は、記憶され、記録され、他の出来事とつき合わされて、新たな関係の図式を描き出していく。
 
 ひとは、出来事を愉しみとし、また、出来事を苦の種にしている。
 生きているという現象を、丸ごと連続した同質のものと扱って、ひとりの人間におけるひとつの出来事とみなすと、人生はひとつの出来事だけでなりたっていることになる。誕生に始まって、死で終わる、区切られたひとつの生のシーンである。
 生まれたものは、必ず、死ぬ。生の中に死が含まれている。生まれたけれど、死なないものはない。生まれたことがないものだけが、死なないのだ。不滅のものは、生まれなかったのだ。だから、不滅のものは、出来事を経験していないのである。
 

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