「問題がある」と誰かが言い出したら、そこに問題が生まれる。
 問題なるものが、もともと、この世に、さらに大きくいえば宇宙空間に、しっかりした形態と目方をもって浮遊しているのではない。問題は物質として実在していない。それは、概念として、ひとの意識の中に生まれ、解決によって消滅するまで、生き長らえるものである。
 「問題」は、人間の認識力によって、その意識の中に見出される。その意味で、人間独自の存在である。ひとの認識力の働きを外せば、宇宙には何の問題もない。
 犬や猫には、「問題」はない。そのように概念化して、事態を認識する知能をもたないからである。犬や猫においては、そのとき、その場で対処すべき事象があるだけである。人間が騒いでいるような食料問題も、環境問題も、労働問題もない。食べ物がなければ空腹にすごすだけ。イヤな匂いのただよう場所には近づかない。労働にノルマも残業もないから、好きに動き回り、好きに休み、寝る。病気になったら、内在する治癒力に任せて、修復完了を待つ。死ぬときがきたら、死ぬ。それだけである。
 人間界では、そうはいかない。
 人間は騒がしく、問題を探し出し、自分で悩み、他者を責める。
 「問題」を見つける気のないひとは、自分の意識内に問題が発生しないので、問題をかかえない。その結果、何の問題もなく、幸せに生きていけるはずなのである。
 ところが、そのひとと関わりをもつ集団なり組織なりにおいて、他のひとたちが問題にしている事柄について、ひとりだけが問題認識をもっていないとなると、「あのひとは問題だ」と糾弾され、当人の幸せな時間が消滅する事態になるのである。夫婦間でも、大企業内でも、共有されているはずの問題を全く意識していないひとがいたら、その鈍感さと無責任さが責められる。
 そこで、問題を見つける気のないひとは、「問題意識」を持つように、と周囲からことあるごとに促される。
 森林を伐採して、レジャーランドをつくったり、海を埋め立てて空港をつくったりする人間の振る舞いは、自然をそのままに鑑賞したり尊重するという認識から離れた問題意識に依っているのである。刺激的な快感を求めて、あるいは、1分でも早く目的地に着きたいという欲望もまた、意識の中で生まれる。
 この欲望が、不満を抱える意識の中に、問題を見いだし、その解決という名目で、実は貪欲に、暴力的に、地球を破壊し汚しているのである。
 そこが人間の本性に根ざした一番深刻な問題といえる。


写真:寝てる猫(撮影 伊藤あゆみ)

「問題」という問題:0