ひとにお金をあげる、とする。
 欲しているはずのひとにあげても、受取ったひとが「蔑(さげす)まれて」いるのだろうと考えると、失礼な行為になる。
「ありがたい、思いやりが嬉しい」と感謝してくれるひとには、善行になる。
行為だけをとりだすと、その行為そのものに善悪、好悪の印象の違いはなく、受け手に、その行為の意味が委ねられる。
ひとはひとを助けたい、喜んでもらいたいというこころをもつものではあるが、菩提心というのか、慈悲というのか、愛というのか、ともかく、喜びの情を最高に好ましいとおもう働きが、ひとの意識には組み込まれているようにみえる。
愛を持たない人間は存在しないはずだが、その力の発動の程度には大いなる違いがあることを、だれもが、経験をとおして知っている。

 真理探求という崇高な目的をかかげる宗教も、学問も、芸術も、概念的には、その目的が一定の高い価値をもつことに異論はないのだが、世に実在する個人の営みを注意深く観察していると、崇高どころか、自己顕示欲(名誉)と自己利益(金)を貪欲にむさぼる行為でしかないとおもえる事例が目立つ。

 善意をよそおう行為と、悪意を隠蔽する行為は、意識の方向性はまるで違っているのだが、共に、悪意から発信された意志であることに違いない。このような行為は、いうまでもなく、真理から遠くはなれた戯れ事といわざるをえない。
 善意をよそおった活動が、真の善意のひとたちの活動に疑念を生じさせ、社会の改善への取り組みの足をひっぱっている。
街頭でよくみかける寄付活動の中には、その活動団体自体の性格や、寄付の使途や管理が不明瞭にみえるものも少なくない。
 「形」を整えて善意を装えば、世間の目はだませる、という発想が、明らかな犯罪をのぞいても、あらゆる活動域にみられる。

 それでも、比較の性癖に支配された思考至上主義は、世間を汚染し、戯れ事を賞賛する。思考は、偽装工作を巧妙なものにするのに、重要な働きを果たしているのだ。目的や理念がもっともらしい語句で語られていると、悪意を容易には見いだしにくい。
 インターネットがもたらしたリンクは、個々人の軽薄な想いと嗜好を、物理的に束ねてみせる世界像を、われわれにフィードバックしてくれるのだが、私は、ほぼ完全に、それについては関心を失っている。

 現実としては、真理探求をかかげる卑しい研究者や売名の手段としての表現を貪る芸術家も、「形」を見事なものにしておけば相当な評価はかせげるのである。
 そもそも、真理は、金とも名誉とも無関係なところに在る。ひとが頭脳で納得するような「成果」や「価値」とは本質的に違った属性をもつものである。

 「王様であろうと
  乞食であろうと
  無欲の人だけが輝くのだ!」 
『アシュターヴァクラ・ギーター』福間嚴訳、ナチュラルスピリット、1990

 さてさて、いま、大学は真理を真剣に求める善意のひとが育つ環境にあるのだろうか。
 現状肯定型の能力ばかりが問われ、「姑息な成功者」を一人でも多く輩出する教育を良しとする風潮に与するだけの学府では最高学府の名に恥じる。組織をあげて、真に善意の人間を、真理を真摯に渇望する芸術家を育てたい。

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