社会のインフラがほとんど姿形をもたない原初的な時代、学校などの建物や教育システムがなくても、ひとは学んでいたのである。生存を賭けて、また、単純な興味と快楽のために、知るべきことを知り、覚えるべきことを覚え、意識と身体に、その知の成果を蓄積していただろう。地学や生態学はなくても、生存環境への経験的、直感的認識を確かにもっていたはずである。生息地における気候の特徴や、天空の星たちの見掛けの変化も自然と知識化していっただろうし、そうした環境への対応策を身体の快適性確保のためにあみだしていったであろう。知識を共有するための記憶媒体にめぐまれないときには、個々人の脳内記憶がほとんど唯一のデータベースとなっていただろうから、生存能力の個人差は小さくなかったのではないか。
 投入した学習時間に対する成果を、学習生産性と名づけてみよう。
 そもそも、ひとりの人間の一生涯における成長プロセスをみつめる視点からは、全生活時間が学習時間というべきである。が、その成果物を普遍的尺度に照らして計測することは容易ではない。結局、問題は、人間存在そのものの価値が最高位に達した姿をどのようにみるべきなのか、なのである。
 人生まるごとの学習時間をとおして、その成果物を物質的価値観から測ろうとすると、生涯所得や、社会的功績(文化的価値の創造、到達したステータス、叙勲など)を指標としたくなるだろう。要は、金と名誉を問題にするのだ。
 また、人間性、霊性の成長という観点に立つと、どれほど偉大な人間となりえたか、どれほど多くのひとを救い、支え、成長させたか、といった無形の価値評価が必要になる。たとえそのような価値が成果として大学教育の結果生じていたと推測できても、それを実証するには、因果両端の時間差が大きく、証拠立てる要因の可視化も、まず無理な話だ。
 一般に、大学は、学生個々人が高度な自己実現をはかり、社会に活躍の場をえて、その社会の改善、改革に貢献できるような人材の育成を後押しする役割を求められている。
 そのために、大学は、常に自己点検をとおして、学生自身の学習態度や授業に対する満足度などの検証と、担当教師の授業の内容、指導方法、評価法などの改善を奨励している。
 一方、無私の愛の実践者を人類における最高位におくという設定ではどうなるか。馬鹿げた行為とまではいえないだろうが、そのような地点への到達イメージを保障するような学修プロセスを、学校という仕組みの中で構築しうるものだろうか。
 たとえこのような教育目標を文言でうまく概念化できたとしても、TO DOリストはつくれないだろう。そこで、判定の容易さが決定要因となって、最高学府の教育が為し得る目標の最高位といっても、せいぜい凡庸な成功者を輩出するといったところにおさまるのである。
 この「凡庸な成功」には、ノーベル賞受賞者や総理大臣、大手企業の社長、会長などの肩書きを獲得したひとたちも包括される。世界の高等教育機関のランキングなどをみても、あまりに通俗的利欲に応えるような「役立つ」教育が評価項目で支配的になっている印象をもつ。建学当初から、「崇高」は捨て去られている。人間存在への尊崇の念の涵養への努力は欠落してるといわないまでも、軽微な扱いにとどまっているとおもえる。
 ひとは、概念ではなく、思考で把捉できない生命という実体なのである。この聖なる実体を人間の本性とみるなら霊性や崇高さを除外した教育などありえないはずである。
 競争に勝てる人材。自己の夢をどこまでも諦めず達成しようというガッツのある人材。自己表現に長けた、並外れて我がままな人材。このような人材が世界人口に占める比率を高めるにしたがい、愛の力はますます衰弱し、自他の対立はきわまり、世界は渾沌を深めていくだろう。
 そこで、最後に、わがサガビ関係諸氏を含む美を愛するすべての人に、大いなる期待をこめて、付言したい。
 美の理解は、高度な秩序の理解でもある。美の学徒は、人間の崇高さに目を開き、限りなく上質な秩序の発見、創造に全生命を賭けてほしい。

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