せっかく学ぶのが楽しいことでも、「テストします!」と宣言されて、その準備に追われるというのは楽しくない。楽しくないことでも、それをやる教育的意義としては、忍耐力とか挑戦する力を育成するという名目は立つが、テストされる人間にしてみれば、おもしろくない。その事実は排除できない。
 自己防御の作用といえばそれまでなのだが、どれほど学んだかを他人から調べられるのは、多くのひとにとって、とても不愉快である。
 授業で聞いていて楽しめた話も、ちゃんと覚えているのかどうかを試されるとなると、結局求められていたのは記憶作業だったのか、と失望する。
 大部分のひとにとって、学校のおもしろくないところがここにある。テストで、トップになるのが気持ちいいし、それがヤリガイになるというひとも少数いるのを知っているが、読者がその該当者であれば、このコラムは「ここまで」としてほしい。
 忍耐力と挑戦力にすぐれた先生ばかりでは、テスト嫌いの学生の気持ちなど容易に理解されないとおもえるから、学校は「つらくて、不幸な場」になるかもしれない。
 とはいえ、われわれ教員としては、授業における学生の成果を知ることが求められている。個々の学習者の成績評価は必須の仕事となる。「みんなよくやってくれた」では済まされない。
 そこで、こんな程度でどうかとおもう。「一応、この科目については一定の成果があったとおもいます」で「合格」。「残念ながら、ちょっと成果があがらなかったね」で「不合格」。この二択でいくという案。
 たとえば、大学入学試験でトップで入るかビリで入るかよりも、合否が最大の問題である。ビリの合格者の次の評点まで迫っていたとしても、落第というステータスに「優」も「可」もない。その大学に存在できないひとになっているだけである。
 司法試験も、医師国家試験も、同様、点数の問題ではなく合格によってしか資格取得はできない。人生もおおいに変わる。
 理解能力の競争的意味から絶対値を算出する評点主義でなくても、一定の資格水準をクリアーすれば、後は、弁護士として、医者として職業を経験していく中で、成長していけばいい。国家試験ではスレスレ合格した弁護士が、司法現場の経験をとおして業界ではトップランナーになっている事例も少なくないだろう。
 外科手術の世界的権威で、「神の手をもつ」などと神格化された名医は、必ずしも偏差値の高い大学医学部の出身者ばかりではない。
 もっとも純粋な学ぶ喜びは、学ぶことそのことに至福をおぼえる時に享受できるとおもう。学習成果をめぐる競争や評価方法ばかりが議論される組織的に覆われた世界では、自立的な学びは生じにくいし、その喜びを知る者が増えるともおもえない。

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