極度に虚無的なひとは、不幸な巡り合わせにいちいち落胆しないだろう。この種のひとは、落胆という喪失的感情に価値を見出せるほど楽観的になれるはずもない。生の明るい面を失い尽くして生きているのだから。
 そもそも人生は、苦難のバラエティを仕組んだ神の人間に対するイヤガラセの実践の場にすぎない、なんて、考えておくと、どんな災難に出くわしても、なんとなく合点がいくようで、割に合わないなんて不満は生じにくくなる。
 人生を、不幸体験のトンネルと喩えるなら、トンネルの長さが寿命であり、さんざんたたきのめされても、最後にはそこを抜けて、明るい世界にたどり着けるというイメージがもてる。通過するトンネルがどれほど暗いか明るいか、心地よい匂いに満ちているか、悪臭がたちこめているかなどは個別な特徴ということになる。
 人生を頭から「苦のパック旅行」だと決めつけるような考えに強い反発をおぼえるひとは、あくまでも希望を強調するだろう。何があっても明るく生きておれば、諦めないという意志を捨てなければ、きっとやがていいことが起こる、救済がどこからともなくやって来る。そういう信念をもとうというわけだ。
 考えとしては悪くない。アメリカ人の好きなポジティヴ・シンキングというやつだ。しかし、そこには大きな落とし穴もある。希望や幸福という概念を自分のエサにして、空想的に、そのエサを頭上にぶら下げて生きていこうというだけでは、リアルに生じて来る事態は乗り切れない。リアルな災害は、頭の扱いようもない冷酷な実体なので、思考は全く無力なのだ。
 気象の変化の増大に起因する自然災害は、今後、統計的予想としては、地球規模で増えていくのだろう。日本に限定してみれば、活断層の密集度や高潮・津波に絶望的に弱い島国という事実を見るだけで、深刻な生活破壊が生じる可能性が高いことはだれでもわかる。
 高所からみれば、偶発的に地球という小さな岩塊の表面に生じた人類という生命は、か弱く、はかない存在でしかない、と認めざるをえない。
 おまけに、神のイヤガラセ説でいけば、これだけ勝手に地球を我がままにいじくり、金と名誉の欲ボケに罹病した人類の狂乱ぶりに、当然の罰だと納得出来ないこともない。それ相応の対価を支払わせたいという部分も小さくない。
 廃棄方法も確立していない核を「平和利用」などと称して「平和」を破壊した東電の原発や、台風や高波を甘くみて海を埋め立てて飛行場をつくった関空のお粗末な“沈没”事例をみても、十分に能天気に国家的規模の開発がすすめられているのが分かる。
 金と名誉のためにせっせと働く人類の愚かしさ。この人類の愚行自体が大きく深刻な自然災害のひとつであるようにおもえる。
 ひとの考えや行動がもたらす災害は人災といわれるが、マクロな視点からみれば、人類という一種の生物の振る舞いが自然環境あるいは人類の生息環境に悪影響をおよぼしているという事実からすると、自然災害に加害者が被害を受けているという状況ともとれる。
 いま、その加害者であり被害者のわれわれに、何が出来るのだろうか。
 首都移転や首都機能の複数化、地震予知の精度を高めることや災害通報システムの改善、避難場所の整備(機能向上)や、危険回避のための市民意識の改革など、目先の対策はあれこれ議論にのぼるが、私の提案は、「この人類の愚かしい勤勉を支援してきた教育を問いただす」、である。
 地上の一生物としての謙虚さと調和的生存への理性的態度を学び、理解すること。その上で、自己益に向かって暴走しすぎる人類を、より高度な生物種に変容させるために、「金と名誉」に汚濁した社会の営みを愚かしいと認識し、抑制しうる知性を育成しなければならない。この途方もない課題は、教育こそが真に神聖な行為であると自覚し得た少数者から、直ちにはじめられなければならないとおもう。

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