平日の朝、あるいは夕方、いわゆるラッシュ時に、大都会の大きな駅で、出くわす人の群れは、全体としては無表情な運動体にみえる。ひとりひとりが個別なおもいをもちながら、それぞれの目的地に向かって移動しつつあるのだが、「人生は、楽しいものなんかではない」とかのナレーションをかぶせるのに相応しい光景だ。
 移動する群衆には、仕事を楽しんでいるひと、遊び目的のお出かけでわくわく気分のひとも、当然含まれる。それでも、総体としては、ルーチンにやむなく支配され、生きのびる手段を放棄できないものの失望を隠しながら生きつづける人間集団の無表情に、ちょっぴり哀しさをおぼえる。
 つくづく、人生を楽しむことは難しい。
 まっすぐに楽しい時間が、心身にプラス効果を発揮するのなら、また、法やモラルに反するものでないのなら、単純に、大いに楽しめばいい。考えとしてはそうなのだが、肝心の自分のこころが、そのような考えどおりに動いてくれない。
 適度な飲酒は、大過なく、楽しい時間を提供してくれるが、過度になると体調不良や人間関係の崩壊、あるいは失業、ついには病死といった悲惨な結果を招きかねない。酒を楽しむという嗜好は、日常の悦楽を欲するにあたり、当人にしてみれば常規を逸するほどのものでないと楽観しているのだろうが、うっかり深酒が習慣化し、ついには廃人となってしまった前途有望なひとを度々見てきただけに、私は気になる。
 大学を出たばかりの頃、私の映画鑑賞熱は危険域に達していた。観た映画の評価・感想の記録を怠らなかったので、毎年度末にその本数が明らかになるのだが、ある年に365本を超えたのには、驚いた。当時は、サンドイッチを持ち込んで、3本立てを観る、という状況も少なくなかったので、こういう数字になったのである。
 驚いただけでなく、実害があった。右の耳周辺と歯茎が腫れあがり、わずかな音に対してでも、直接打撃を受けた部位にとどまらず、全身が昼夜を問わず不快に反応したので、外に出て騒音にさらされるのを避ける日々が続いた。映画館の音量が日常レベルを超えている事実を、恥ずかしながら、このときに身をもって知ったのである。
 欲望を満たすことが「楽しい」をもたらす基本的要因であるのだが、欲望の制御は、必要なものと知りつつ、時に、楽しさに冷水をあびせるような、おおらかさを欠いた意識をうみだす。天井しらずの快感を求める野性性の発動へのブレーキは、せっかくの気分を消沈させる「無粋な理性」の作用とみなされるのだろうが、快の後にもたらされるかもしれない破滅的事態をおもえば、それは「おもいやり」というものだ。
 大都会の駅の騒音は、狂信的映画館通いで痛めつけられた身には恐怖となった。おそるおそる電車に乗って走行音と暴力的なアナウンスの声に向き合っていたとき、唐突な気づきがやってきた。この不便な心身状況も、「戦争ほど不幸じゃない」と。
 そう考えると、ラッシュ時の無気力にみえる集団が、まったく同じ色に染められた軍人でないことを嬉しく、また幸運におもえた。このひとたちが兵器ではなく、色とりどりのバッグをかかえている情景に安堵できたのだ。
 戦争は、人生から楽しみを奪う。この一点からも、戦争はあってはならない。

「楽しむ」:0